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お尋ね

 投稿者:houdo2809  投稿日:2015年 1月27日(火)14時38分40秒
  s様
01年9月1日付掲示板ログに「系図中、匡弻と言う人物のところで、嫁細川肥前守靖忠女とあり云々」と書かれていますがこの細川肥前守康忠は熊本藩主一族の細川氏です。名門畠山氏、落ちぶれたとはいえ、細川氏から嫁を娶っていたのです。匡弻の孫匡明は熊本生まれとされています。

私は漢方研究の一環として江戸時代中期に一世を風靡した漢方医、吉益東洞の研究をしているものです。吉益東洞は政長系畠山家一族ですが、吉益家の起こりは義就系畠山氏の畠山匡弻が自分の名をとって吉益を名乗ったのが始まりとされています。政長系義就系で抗争を繰り返した挙句双方ともに没落していったわけですが匡弻の時代に義就系の勢力はほとんど力をなくし政長系の畠山晴煕に仕えています。この時主君の姓を名乗るのを避けて吉益に改名したのではと想像しています。
質問1、匡弻が晴煕に仕えた(降伏した?)のは何年の事でしょうか。
質問2、畠山家系図によると匡弻は息子3名と共に1551年死亡とされ、高政によって粛清されたと言われています。しかるに少なからぬ史書に1562年教興寺の戦いに畠山高政軍に参加したとあります。また、匡弻を名乗った人は他に見つかりません。この事情をご存じならばご教示いただきたく存じます。
 
 

喜多家について

 投稿者:北野  投稿日:2013年 4月23日(火)20時19分52秒
  管理人様

お尋ねの件、喜多家については存知ませんでした。
北野家(北家)とは関係ありません。
 

北家の系図について

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 4月20日(土)10時32分42秒
編集済
  北野様
掲載した北家系図を確認頂きまして、ありがとうございます。
なるべく早くに北家系図を訂正・加筆させて頂きたいと思います。
また、新しい発見等があれば、ご連絡頂ければ幸いです。

ところで、長滝の旧紀州(熊野)街道沿いに残る「喜多」家をご存知でしょうか?
嘉祥寺・北家とはなんらかの関係がありますか?

http://www.eonet.ne.jp/~sensyushi/meike/

 

泉州の名家(北家)の系図

 投稿者:北野  投稿日:2013年 4月15日(月)14時33分58秒
  管理人様
泉州の名家に北家を加えていただき、ありがとうございます。
以前、私の投稿した情報に一箇所誤りがありましたので、訂正いたします。
★下記の(5)の文章のうち、右近の妹「こやへ」とあるのは宇平次の妹「こやへ」と訂正します。
(5)宇平次の死後(元和2(1616)年)は,右近の妹「こやへ」に村内嘉祥寺の親源左衛門を婿に迎え、この婿養子が「源治(源次)」と名乗って家督相続。
★また、泉州の名家のサイトに記載されている北家の略図のなかで一部訂正、加筆したほうが良いと思われる点を以下に記しました。
①「こやく」とあるのは「こやへ」と訂正してください。
②源治の死後(寛永12(1635)年),まだ嫡男が幼少であったため,同じ根来一族である熊取の「中左近」(同左右衛門)の後見を得て,妻(宇平次の妹)「こやへ」が家督・庄屋役を相続しました。したがって、「源治」のあとに「長兵衛 養子」とありますが、その前に「こやへ 中左近の後見を得て家督相続」、そのあとに厳密には養子とせず「長兵衛 源治後家入家」としたほうが判り良いように思います。
③北「右近」のところで「嘉祥寺右近」の記載が重なっています。

以上、細かいところですので無視していただいても結構です。

生家の土蔵に保管されていた系図など、一連の史料を読み解くことができ、根来左京について往来左京、あるいは往来右京、根来右京など、多くの史料や書物で誤って伝えられている実状に鑑み、歴史はなかなか正確には伝わらないものだと、改めて実感しています。歴史小説となると、さらに作家が面白おかしく脚色しています。たとえば、津本陽著『信長の傭兵』(角川文庫)では「往来右京」となっています。しかも鉄砲で撃ったと書かれています。この点については矢によって負傷している実休を根来左京が討ち取ったとの記述もあり、さまざまです。いろいろ調べて判明したことがあります。機会をみて、ご披露いたしたく思います。今回はこれで失礼します。
 

根来左京について

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月24日(日)11時17分17秒
  乙羽様
書き込みありがとうございます。

私も根来左京=根来大来左京亮友章ほぼ間違いないと思います。

http://www.eonet.ne.jp/~sensyushi/meike/

 

北家について

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 3月24日(日)11時05分28秒
  >北野様
北家を「泉州の名家」(http://www.eonet.ne.jp/~sensyushi/meike/)
追加させて頂きました。

誤り等ございましたらお知らせ下さい。

http://www.eonet.ne.jp/~sensyushi/meike/

 

北家の根来左京の件

 投稿者:乙羽  投稿日:2013年 3月19日(火)18時27分7秒
  お久しぶりです。北野さま、大変貴重な史料の掲示ありがとうございます
やはり『先代考拠略』の言い伝えの通り、根来左京は三好実休を討ち取ったあと
三好氏の家臣に討ち取られていたのですね
別史料ですが『訳注紀州根来寺史料』の和泉国久米田合戦の書状の写しによると
「根来衆徒七百騎、根来大来左京亮友章八十六騎(略)その勢、都合二万千四百騎」
と記されており、この根来大来左京亮友章が北家元祖の根来左京(往来左京)と
同一人物と考えておりますが、いかがでしょうか
 

北家の家記について

 投稿者:管理人  投稿日:2013年 2月 9日(土)12時24分46秒
  北野様

書き込みありがとうございます。
詳細な家記の書き込み恐れ入ります。
つきましては、書き込んで頂いた内容を「新泉州志」の方に「北家 家記」として
掲載させて頂いてもよろしいでしょうか。
 

根来左京を開祖とする北家の家系図

 投稿者:北野  投稿日:2013年 1月23日(水)16時32分29秒
  管理人様、乙羽様、
ご返事が大変遅れました。根来左京を始祖とする北家家系図の概要についてまとめました。

根来左京を始祖とする北家の系図(概要)について
系図は前文で,「当家は根來一族であるが,時の将軍を恐れ,根来から北へと改称した」と記している。系図(原文)のほかに墓誌・過去帳・その他の史料によって以下の通り北家の家譜をまとめた。
(1)始祖の「根來左京」は根来法師。畠山高政軍に加勢し,永禄5(1562)年,岸和田の久米田での
戦で,敵の大将・三好実休を討取る武勲を立てるが,三好一族の弔合戦で討取られる。
(2)「左京」が戦死したとき,まだ嫡子が幼少のため,従弟の「佐助」が家督相続。
(3)その佐助の死後,嫡子「右近」が相続,右近は秀吉の根来攻めのときに畠中城に入り嘉祥寺右近として土豪たち(中左近,是光ら)と共に防戦,しかし中村孫平次の軍勢との戦に敗れ,敗退,積善寺より山道を退き,根来寺が滅んだ後は,村に帰り北右近と名乗り潜居、卿保(後の庄屋)となる。右近の弟・半兵衛は松平越前守(福井藩主)に仕え奉行職を、また、嫡子・清太夫は御使番役をそれぞれ勤めている。
(4)この北右近の死後(慶長15(1610)年),嫡子長男「宇平次」が家を継ぐ。
(5)宇平次の死後(元和2(1616)年)は,右近の妹「こやへ」に村内嘉祥寺の親源左衛門を婿に迎え、この婿養子が「源治(源次)」と名乗って家督相続。
(6)源治の死後(寛永12(1635)年),まだ嫡男が幼少であったため,同じ根来一族である熊取の「中左近」(同左右衛門)の後見を得て,妻(宇平次の妹)「こやへ」が家督・庄屋役を相続。
(7)やがて迎えた源治後家入家の養子が長兵衛の名前を継ぐ。
(8)この養子・長兵衛の死後、源治の嫡子が長兵衛の名前を襲名、第8代として家督相続したが,比較的若く33歳で死亡(寛文9(1669)年)。
(9)この8代目長兵衛に息子がなく、安松村庄屋・向井喜右衛門の子が娘婿(養子)として入り、第9代長兵衛となる。後に北右近と名乗る。
(10)第9代長兵衛の長男と次男は早死。三男「亀之助」が日根野村庄屋・目源六の娘を娶り、父の死後(享保3 (1718) 年)、10代長兵衛として家督相続。隠居後は父と同様、北右近と名乗る。
(11)10代長兵衛の長男「亀千代」が第11代として長兵衛を襲名、家督を相続、庄屋役を継ぎ、吉見の大阪御番所にも出入りを許され、近隣村の相談・世話役をも務めたが、時の役人の意に叶わないことが生じ、代々続いた庄屋役を取り上げられた(宝暦11 (1761) 年)。隠居後、右衛門と名乗る。系図を作成、両親の肖像画(掛軸)を残す。また、墓石には時世の句「今ぞ散る我も昔の言能葉(ことのはや」が刻まれている。
(12)長男「丹次」(後に右兵衛と名乗る)が家督を継ぎ、第12代・長兵衛となる。
(13)12代・長兵衛の長男、次男が相次いで死亡、三男が13代・長兵衛として家督を相続。家名を北野に改め、北野卯兵衛と名乗り、北野家の初代となる。
(14)ところが、嫡男がなく長女「ふさ」に日根郡長滝村の芝野家の次男を婿養子に迎え、この婿養子が北野家の第2代卯兵衛(宇平)となる(1856年)。
(15)第2代卯兵衛(宇平)夫婦は子供に恵まれず村内の蔵野家の次女を養女とし、この養女の婿として日根郡上瓦屋村の松浪家の三男を養子に迎え、家督を相続させている。ここに根来左京以来の血脈は完全に途絶えた。

 以上の「家督相続の流れ」を簡単にまとめると、以下の通りである。
<開祖>根来左京→<2代>佐助(左京の従弟)→<3代>右近(左京の実子)→ <4代>宇平次→<5代>源治(養子)→<6代>こやく(源治の妻・宇平次の妹)→ <7代>長兵衛(養子)→ <8代>長兵衛(源治の嫡子)→<9代>長兵衛(養子)→ <10代>長兵衛(9代の三男・亀之助)→ <11代>長兵衛(10代の長男・亀千代)→<12代>長兵衛(11代の長男・丹次)→<13代・北野家初代>長兵衛(12代の三男・後に北野に家名を改称。北野卯兵衛と名乗る。戸籍面では北野宇平。)→<北野家の第2代>卯兵衛(養子・初代・卯兵衛の長女・ふさの婿・戸籍面では北野宇平。)・・宇平(卯兵衛)・ふさの間に子供がなく、近隣の娘を養女とし、養子を迎えて家督を相続させ、北野家は存続、先祖の供養・墓の管理が継承された。しかし、「ふさ」の死亡によって北家(根来左京以後の)の血脈は途絶えた。
   以上
 

新家氏について(御礼)

 投稿者:王手  投稿日:2011年 8月10日(水)10時57分3秒
  管理人さん。
泉南市の新家氏についてご教示いただき、ありがとうございます。
史料も限られているとは思いますが、今後も期待しています!
 

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