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ジェームズⅠ(1566年6月19日~1625年3月27日・イングランド王としての在位:1603年7月25日~1625年3月27日)

 投稿者:シュバルツ  投稿日:2010年 1月10日(日)21時45分50秒
返信・引用
  スコットランド女王メアリーと2番目の夫であるダーンリー卿ヘンリー・ステュアートの一人息子としてエディンバラ城で生まれた。元々はスコットランド王ジェームズⅥ(在位:1567年7月29日~1625年3月27日)。名付け親はエリザベスⅠである。彼が1歳になる前に父ヘンリー・ステュアートが不審死、母とも引き離される。同年7月に母メアリーが廃位になり、わずか1歳でスコットランド王位に即位する。即位後は摂政が置かれたが、最初の摂政マリ伯ジェームズ・ステュアートは暗殺され、次のレノックス伯マシュー・ステュアートは翌年国内の紛争で殺害された。3人目の摂政マー伯ジョン・アースキンも1572年に死去し、最後のモートン伯ジェームズ・ダグラスはジェームズの 男色趣味 (ジェームズは男色家であった・・・)の邪魔になり、ダーンリー卿殺害に関与したとして1581年1月に処刑された。 1603年、エリザベスが死去すると、後継者となったジェームズがイングランド王ジェームズⅠとして即位。イングランド王・アイルランド王も兼ねることになった。これによりイングランドとスコットランドはパーソナルユニオン(=同君連合。共通の王と異なる政府・議会を持つ国家体制)となる。これがステュアート朝の幕開けとなる。イングランドで最も絶対王政的政治を行った王の一人で、王権神授説の展開や議会を無視した専制政治国教会の優遇と他宗派の排除などを行う。またその男色趣味から当時随一の美男子と言われたコメディ作家ジョージ・ヴィラーズ(後のバッキンガム公)を重用し政治を傾ける。財政面でも妻の浪費を止められず、苦しい資金繰りを強いられた。 1625年3月27日にシーアボールズ宮殿で死去する。  
 

ジョン・ホーキンス(1532年~1595年11月12日)

 投稿者:シュバルツ  投稿日:2010年 1月 9日(土)16時39分1秒
返信・引用 編集済
   イングランドの私掠船船長、奴隷商人、英国海軍リア・アドミラル、ヘンリーⅧの寵臣ウィリアム・ホーキンスの息子。 元々は奴隷商人で、西インド諸島のスペイン領に格安で売り込んでいた。これが原因でイングランドとスペインの間に貿易摩擦が起きる。「彼こそが後のアルマダ海戦の元凶だ」と言う研究者も少なくない。 ところが1568年、サン・フアン・デ・ウルアにてスペイン海軍が急襲。ホーキンスの艦隊は壊滅し、脱出できたのは彼の船とドレークの船だけだった。 帰国後、ホーキンスは一旦陸に上がるが、そんな彼に転機が訪れる。1571年のリドルフィ策略事件で、彼はエリザベスⅠの花婿候補にもなったノーフォーク侯爵の陰謀を通報する。ホーキンズはその褒美に英国議会の議員に登用され、義父の死後跡を継いで英海軍財務官になる。彼は海軍軍政の中枢部から海軍管理体制を整備し、さらにガレオン船を改造して戦列艦の原型を作った。 アルマダ海戦に於いては海に戻り、リア・アドミラルとして参戦。アルマダ撃退に大きく貢献し、爵位(Sir)を叙勲した。 1590年にはドレークと共に病気と老齢の船乗りを救済する「チャリティーの会」を開催し、1592年にその資金で後に「ホーキンス病院」と呼ばれる病院を造る。救済のチャリティーは現在に引き継がれて継続されている。 1595年1/25にプエルト・リコサン・ファンを27隻の艦隊と2500人で襲撃した。街を焼き払ったが占領できず、翌年再度の来襲時には、砲撃でかなりの損害を受けた。ドレークの乗船は命中弾を受け損壊。ホーキンスはプエルト・リコの海上で最期を遂げた。 因みにホーキンスの息子のリチャードは父親の仕事を引き継いだという。
 

フランシス・ドレーク(1543年? ~1596年1月28日)

 投稿者:シュバルツ  投稿日:2010年 1月 9日(土)16時27分20秒
返信・引用 編集済
   イギリスの私掠船船長、英国海軍ヴァイス・アドミラル。エル・ドラコ(ドラゴン=悪魔の権化の異名で知られる。
 南イングランド生まれ13歳で海に出る。後に従兄のジョン・ホーキンスの下で奴隷貿易に従事したが、1568年に自ら船を調達して船長となった。その後もホーキンスの船団に参加していたが、ベラクルスのサン・フアン・デ・ウルアにてスペイン海軍の奇襲を受け、船団は壊滅状態となった。ドレークはなんとか逃げ延びてイギリスに帰還するが、この経験はドレークにスペインに対する復讐心を植えつけることになった。
 以降私掠活動を開始し、西インド諸島のスペイン船や町を襲う。
1577年11月、ガレオン船<ゴールデン・ハインド号>を旗艦とする5隻の艦隊で、プリマス港を出航、太平洋に進出し、チリやペルー沿岸のスペイン植民地や財宝船を襲い多大な財宝を奪う。 その中にはスペイン王の財宝を満載したカカフエゴ号なども含まれた。 カカフエゴ号には銀26t、金80ポンド、貨幣と装飾品13箱など合計20万ポンド相当が積載されていたとされる。
 その後、太平洋を横断してモルッカ諸島に、さらにインド洋から喜望峰を回って、イギリスへと帰国し、マゼランに続く史上2番目の世界一周を達成した。途中、1578年にホーン岬とドレーク海峡を発見している。
 1580年9月に<ゴールデン・ハインド号>がプリマス港に帰港し、エリザベスⅠに金銀財宝を献上した。この額は30万ポンドを越え、当時のイングランドの国庫歳入よりも多かった。この功績により、海軍に登用されると同時にサー(Sir)の称号を受ける。
 1581年にはプリマスの市長にも選ばれるが、スペインとの国交悪化から再び海に戻り、スペイン領への攻撃を率いる。
 1587年、カディス湾でスペイン艦隊を襲撃しアルマダ海戦への決定打となる「スペイン国王の髯焦がし」事件を起こす。
 1588年のアルマダ海戦ではヴァイス・アドミラルに叙任され、全艦隊の作戦立案・実行を一手に引き受けた。
 だがアルマダ海戦後は私掠活動をしばしばエリザベスⅠに制限され、彼女に「小心者」の烙印を押していたと言う。(実際には彼女の政策が正しく、もしあのままスペインと派手な海戦を続けていたら、産業基盤の薄いイングランドは破綻していただろう)
 1594年から西インド諸島襲撃を実施するが、スペイン軍の堅い守備を打ち破ることは出来ず、1596年に赤痢に倒れ、病床で鎧を着ようとするなど錯乱状態のまま死去する。
 

エリザベスⅠ(ユリウス暦1533年9月7日~グレゴリオ暦1603年3月24日・在位:1558年~1603年)

 投稿者:シュバルツ  投稿日:2010年 1月 9日(土)16時19分8秒
返信・引用 編集済
  テューダー朝最後(6代)のイングランド女王・アイルランド女王。ヘンリーⅧと2番目の王妃アン・ブーリンの子。弱小国家イングランドの独立を維持し「よき女王エリザベス」と慕われた一方、カトリックの迫害を行った。別名グロリアーナ(栄光あるもの)。また「私は国民と結婚しました」と公言し、生涯独身であった事から処女王とも呼ばれている。 ヘンリーの死後、イングランドの王室は崩壊寸前だった。僅か6年の治世のエドワードⅥ、9日間だけ無理やり女王にされたジェーン・グレイ、4年間で300人のプロテスタントを火あぶりにしたメアリⅠ・・・大陸に唯一残る領土・カレーも失い、国民は分裂、国家財政は破綻していた。 そんな中、メアリⅠによってロンドン塔に幽閉されていたエリザベスⅠが即位する。メアリⅠの政策と一転して、カトリックを弾圧し宗教改革を沈静化させ、フランス国王と結婚していたスコットランド女王メアリー(メアリⅠとは別人)を処刑する。 また文化面でもウィリアム・シェイクスピアを始めとする文筆家を多数輩出して一大文化を築いた。 そしてドレークをはじめとする私掠活動を使い、財政も回復させた。対立の深まるスペインをアルマダの海戦で破り、イングランドの海上貿易を拡大した。  この聡明な女王のおかげでイングランドは200年にわたり絶大なるシーパワーを展開できたのである。
 

ヘンリーⅧ(1491年6月28日~1547年1月28日・在位:1509年4月22日~1547年1月28日)

 投稿者:シュバルツ  投稿日:2010年 1月 9日(土)16時16分56秒
返信・引用 編集済
  テューダー朝2代目のイングランド王・アイルランド王。ヘンリーⅦの次男。
イングランド史上最大の暴君と言われ、同時にイングランドを中世から脱却させた王としても有名。ヘンリーはイングランド王室史上最高のインテリであるとされ、ラテン語、スペイン語、フランス語を理解し、舞踏、馬上槍試合などスポーツにおいても優れた才能を発揮した。音楽にも造詣が深く、ヘンリー8世作曲とされる楽譜が現存しているなど、文化史にもその名を残している。
即位の2ヵ月後にカスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世の末子キャサリンと結婚、メアリー1世をもうけるが 一目惚れしたキャサリンの侍女、アン・ブーリンとの再婚問題でキャサリンを結婚無効にする。それまで教皇レオ10世から「信仰の擁護者」の称号を授かるほどの熱心なカトリック信者であったが、この問題で教皇と対立、イギリス国教会を作り、中世カトリック社会から脱却する。
その後も彼は離婚・再婚を繰り返し、生涯で6人の妃をとり、そのうちアン・ブーリンをはじめとする2人を処刑する。トマス・モアをはじめとする側近・父代の重臣を次々と離別・処刑し、カトリック修道院の財産を没収するなど過激な人物だったが、イングランド絶対王政確立に大きく貢献した。
 

ヘンリーⅦ(1457年1月28日~1509年4月21日・在位:1485年8月22日~1509年4月21日)

 投稿者:シュバルツ  投稿日:2010年 1月 9日(土)16時12分13秒
返信・引用 編集済
  チューダー朝の開祖。リッチモンド伯エドムンド・テューダーとランカスター家傍系ボーフォート家のマーガレット・ボーフォートの子。かの有名な薔薇戦争でヨーク家リチャード4世を破り王位に就く。絶対王政をきずき、息子ヘンリーⅧの中世脱却の基盤を築く。持病の痛風と結核によりヘンリー7世はリッチモンド宮殿において52歳でこの世を去った。
 

アルフレッド大王(849年~899年10月26日・在位871年 - 899年)

 投稿者:シュバルツ  投稿日:2010年 1月 9日(土)16時09分58秒
返信・引用
     アングロサクソン人の建国したイングランド七王国のウェセックス王。聖公会・カトリック教会・正教会で聖人。
エゼルウルフ王の5男。兄エセルレッド王の死後を継いで王位についた。生涯を通じてデーン人と戦い、英国海軍を創り出す。数世紀を先取りした戦略的天才で、法典の編纂、学芸の振興、行政の整備にも尽力し、アングロサクソン時代最大の王とも言われている。
 

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